義母の思い出・・・

義母の思い出・・・

私はあまり頭が良くありません。


想像力がない足りないのか、自分の身に実際におこってみないと他人事というか、本当の意味で理解することが出来ない人間です。


例えに出すのは本当に申し訳ないのですが、阪神・淡路大震災がおこった時、関西の友人が多かったこともあり、「これはえらいことがおこった・・・」と心配しましたが、当時まだ若かったこともあり、今振り返ると私にとってはテレビのニュースの中の話であり、どこか他人事でした。


東日本大震災で私の親戚が亡くなりました。


遺体も見つからなかったそうです。


その時初めて理解・・・、理解という言葉を使うこと自体失礼かもしれません。


自分のこととして受けとめました。


この東日本大震災が、私たちの結婚の大きなきっかけにもなりました。



義母の介護で派遣社員になった頃、仕事中に大きな地震がおきました。


心配で当時職場があった7階の窓から下を覗き込んでみましたが、何事もないように普通の日常の風景がそこにあり、その強い非現実感にクラクラしたことを今でも覚えています。


そんな私ですが、テレビやネットのニュースで介護問題や、高齢者の方の痛ましいニュースが頻繁に流れるようになった時も、「大変だなー」、「痛ましいなー」と思っても、今の日本では誰にでも起こりえる問題と捉えることが出来ず、どこか他人事でした。


義母については、いつかは書こうと思っていたものの、私にはまだ生々しすぎて、決心がつかず伸ばし伸ばしにしてきましたが、嫁が「生きてる実感って?」という記事を書いてくれたので、このタイミングでないと書けないと思い、記事にしてみます。


関連記事「生きてる実感って?」


義母と嫁はよく似ています。


まず2人ともよく転びます。


私は2人を観察してきましたが、足首の関節が固いのが原因だと思います。おそらく遺伝でしょう(笑)。


本を読まない、買い物が大好き、奇妙なファッションセンス、計画性がない、まあよく似ています(笑)。



義母の第一印象は、よく言えば豪快でおおらかな人。悪くいうと大雑把で、娘も含め自分以外の他人に関心がない人のように見えました。


結婚してから私が義母に会う機会は、春と秋のお墓参り、お正月、義母の誕生日くらいでしたが、嫁と義母は仲がいいというか、嫁に言わせると母親ではなく友達のような感覚だったそうなので、よく一緒に銀座に行ったりカラオケに行ったりしていたようです。


この頃の義母は、欲しいものがあったら買う。


高くともお金を貯めて計画的に買うというのではなく、その時欲しいものがあればすぐ買う。


旅行に行きたければ行く。


これもそのために貯金をするのではなく、何しろ行きたかったらすぐ行く。



8万円のなんだかよく分からないブランドのバッグを、勧められるままに購入し、「使わないからあんた達にあげるー」とか、重くて着る機会もない、20万円もするセミオーダーメイドのカシミア100%のコートを、その場のノリで購入してしまう・・・。


温泉旅行には月2回以上は行っていたし、貧しい私たちから見ると、「随分と浮世離れしてお金持ちだなー」と思っていました。


社交的だった義母は保険の営業をしていました。


定年退職後も嘱託として働いて、同居する直前まで保険の営業の仕事をしていました。


この辺が義母の異変に2人とも気付き難かった理由のような気がします。


私たちの日常は、ある日突然、銀行からの一本の電話で壊れ始めました・・・。



今となっては最初からそうだったのか、途中からそうだったのかは分かりません・・・。


ただ自分の娘を断りもなく連帯保証人にして、膨大な借金をしていました。


右から左に返せるような金額ではなかったので、「返済はするが、連帯保証人だけでもなんとかならないか」と、銀行の担当者に相談すると、


「印鑑証明書が添付してあるので無理です」


と言われました。


印鑑証明書ってそういう意味だったんですね・・・。


借り入れの書類を見ると、すべて義母の筆跡だし、当時一緒に住んでいないのに、一緒に住んでるように住民票を移してまで、嫁の印鑑登録をしたようです。


状況証拠から義母に事情を問い詰めても、覚えていないというか、とぼけてるというか、何もラチがあかず、結局どうして、どうやって嫁を連帯保証人に出来たかは分かりません・・・。



そもそも最後の最後まで借金の意味を理解できなかったので、「悪いことをした」という認識は皆無でした・・・。


銀行と交渉し、私たちも協力して月々の返済額を増やす代わりに、利息を安くしてもらいました。


借金の全容を私が把握、精査するまでの間の半年弱ほどで、義母の足腰はどんどん弱っていき、普通に歩くのもままならない状態になっていきました。


本人曰く、「坐骨神経痛だから痛くて歩けない」との事なので、心配して病院に行って検査してもらうと「ただの運動不足なので、運動するようにしてください」とのこと・・・。



同じタイミングで、次から次へと問題が起こり、色々なところから嫁に電話が来るようになりました。


義母の行きつけの喫茶店からは、
「ツケで飲み食いした分の支払いが溜まっている」


義母の職場からは、
「仕事で使っているタブレットを紛失したので弁償してください」


義母からは、
「年金を3日で使い切ったのでお金がない・・・」


問題解決の為に私達の有給も使い切った頃、「同居しないと無理だ」と言う結論に至り、私は派遣社員に、嫁は夜勤で働けるカラオケ店に転職しました。


※この辺の派遣社員時代の苦労話は下記の記事に詳しいです。


関連記事「外国人就労拡大に思うこと」


そうして義母との同居が始まったのですが、最初の週末に早速事件が起こりました・・・。


最初の週末だし、巣鴨でも行こうと3人で出かけた帰りに、私達は食材を買わなければいけなかったので、一旦義母と別れました。


暫くして、家に帰ると義母が居ない・・・。


どうしたんだろうと2人で心配していたら、間も無く義母が帰ってきました。



「ご飯外で食べてきたから、お金を払っといて」とのこと。


要は無銭飲食です。


品川にいた頃は長く住んでいた街なので常連のお店もあるだろうし、ツケ払いもできたのかもしれませんが、引越したばかりの誰も知らない街で、まさか同じ行動に出るとは思っていなかったので、度肝を抜かれました。


そういうことをさせないよう、義母の身も、私たちの身も守るために同居したのに・・・。


ガッカリしました。


いくら問い詰めても、なんら悪気がないし、そもそも自分がどうして同居に至ったのかも理解していない。


全くコミュニケーションがとれません。


戦時中に生まれたいわゆる戦中世代で、日本の一番貧しい辛い時代を生き抜いてきたはずなのに、


「この金銭感覚の常識のなさはどう言うことなのだろう?」


と悩んでいると、嫁が義母の古いタンスの中から、古い写真を出してきました。


自分の写真は興味がないのかほとんど持っていない義母でしたが、この写真は大事にしていたのでしょう。写っていいたのは義母の父、嫁からみたらおじいちゃんが、選挙に立候補して、なにやら総理大臣っぽい人が応援に来ている写真でした。



ネットで調べると、どうやら当時の首相、岸信介総理らしい・・・。


どう言うことなのか嫁に聞いてみると、おじいちゃんは総理大臣秘書だったとのこと。


これもたまに法螺を吹く義母情報なので、真偽のほどは定かではありませんが、少なくても誰かの議員秘書をしていて選挙に立候補したのは間違いないらしい・・・。


しかも当時の首相に応援に来てもらったのに落選したとのこと。


調べてみると、この岸信介元首相は「昭和の妖怪」と言われたくらいの実力者。


その実力者に応援してもらったのに落選するとは、よほど計画性がなかったのか、人徳がなかったのか・・・、今となっては分かりません。


嫁が義母から聞いた話では、元々嫁の実家は裕福だったが、おじいちゃんが選挙に立候補したりザブザブお金を使って貧しくなってしまった。


しかし義母はそんな豪快なおじいちゃんに憧れていたとのこと・・・。




これはもう義母だけではなく、義母を作り上げたその上の世代との戦いでもあるわけで、私にとっては歴史上の人物のような人まで登場してきて、どうしたらいいか分からなくなりました・・・。


人間、とことん追い詰められると、開き直ってそんなことはどうでもよくなるものです。


認知症が原因なのか、元々の性格なのか分かりませんが、義母はこういう人間だと受け止めて、理解する努力を諦めました。


諦めても私達には私達の生活もあるし将来もあるので、すでに面倒な義母がこれ以上面倒臭いことにならないよう、せめて健康でいて欲しいと、義母の運動と食事に気を使うようになりました。


まずは運動。


仕事が終わると、暑い日も寒い日も、嫌がる義母と手を繋いで散歩に行きました。


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食事は私と嫁の食費を切り詰めて、義母にだけはキッチリ3食。


お腹が空くと無銭飲食をするかもしれないので、お昼ご飯にはお弁当を作りました。



しかしどんなに健康に気を使っても、お金を自由に使えない義母は、どんどん元気がなくなっていきました。


夜に冷蔵庫を開けて「ジー」と見ていたり、なんだか奇行も増えていきます・・・。


「どうしたらいいんだろう・・・」


私が苦肉の策で考えたのが「人生ゲーム」でした。


これなら架空のお金を自分で稼いで、自由に使える・・・。


藁にもすがる思いで人生ゲームを購入しました。



これがあたりましたねー(笑)。


何しろ自由な人なので、ルールも何もあったものではないのですが、義母は嬉々としてゲームを楽しんで元気になっていきました。


私も、義母が元気になるのであればと、毎晩2人で人生ゲームをしていました。


足腰もだいぶしっかりしてきて、口数も多いので、この分だと200歳まで生きるんじゃないかと、本気で考えていました(笑)。



その頃の私は仕事もないのに会社に行き、仕事をしているフリをする毎日。


しかも派遣法改正で同じ職場では3年しか働けない。


家に帰ると義母の世話。


3人で住む北西向きのアパートは隙間風は入ってくるし狭い。


いろいろ自分が磨り減ってしまい、精神的に追い詰められる中、唯一の楽しみは借金の額が減っていく事だけでした。


その後、ゆっくりゆっくり月日は流れ・・・


ようやく借金を完済しました。



このまま東京で、同じ環境で住み続けることに耐えられなかった私が、田舎で暮らしたいと思うのは自然な流れですよね(笑)。


しかも出来れば庭付きの戸建てに住みたかった。


恐る恐る2人にお伺いをたてると、案の定、義母も嫁も東京しか知らないので、大反対されました。


なんとか嫁は納得したものの、義母は頑なで「最後は誰も知らない処ではなく、自分の生まれ育った品川で最後を迎えたい」とのこと。


そう言われてしまうと何も言い返せません。



なんとか落とし所はないかと考えて、義母が行きたがっていた小田原や熱海はどうかと聞いてみると、あながち反応は悪くない。


小田原、熱海方面で、東京から近く、お墓まいりに行ける所と言う条件で神奈川県西部に絞り、義母に納得してもらって見つけた物件が、今住んでいる秦野市の我が家です。


内覧の日、義母を一日1人にするのは初めてだったのでドキドキしましたが、本当に久しぶりの夫婦2人の外出だったので、ちょっとワクワクしながら内覧に行きました。


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何回も物件を見に行く時間もお金もないし、その物件が一目で気に入ったので、その日に契約をしました。


嫁はちょっと驚いてましたね(笑)。


ただ、物件を見にいく度に、義母を1人にしておくのが嫌だったと言うのも、その日に決めた大きな理由でした。



その後久しぶりに2人で食事をして、義母の好きな水ようかんをお土産に買って、テコテコ電車に揺られて帰りました。


決めることも決めて、気持ちも晴れやかだし、車窓から見える富士山も綺麗だし、これからの生活が楽しみでした。


家に帰ると、義母がいつもようにソファに寝そべってテレビを見ていました。


引越しの話や、内覧に行った話は理解していませんでしたが、まあ、ご飯もちゃんと温めて食べたようで、安心、安心。


お土産の水ようかんも本当に美味しそうに食べていました。


その時の義母の笑顔は、私達にとって忘れられない笑顔になりました・・・。



義母は翌日亡くなりました・・・。


義母は間違ったことや、非常識なことをする人、お互いを理解する共感力がない人でしたが、それはもう見事なくらい義母のまま逝きました。


髪の毛一本変えることが出来なかったと言うか・・・、とにかく突き抜けていたので、ある意味尊敬に値します。


私のような凡人には太刀打ち出来ない人でした。


その後私達は、義母のために探した秦野の家に引越し、義母のように良くも悪くも、悔いなく生きたいとフリーランスになったりと、今でも義母の影響は私達に強く残っています。


そもそも義母との同居がなければ、人に話すストーリーもなかったので、漫画も描いていなかったでしょう。


本当にお互いこれからと言う時に亡くなってしまい、かえすがえすも残念ですが、時として、人生とはそういうものかもしれません。


今、嫁はイキイキと楽しそうに生活しているので、せめてもの義母孝行にはなってるかな、と思っています・・・。


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